東京タワーのある街で。(神谷町)2
瑠璃光寺周辺の旅

文:つつみみき

今日訪れたのは日比谷線は「神谷町駅」。ここから東京タワーのまわりをぐるりとまわり、東京タワーの真下に位置するお寺や周辺の街並みを紹介します。

 

東京タワーのある街で。

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ビルとビルの間をまっすぐな東京タワーが顔を出した。

神谷町から降り立った時にであったときよりもずっと長く大きく見える。けれども、同じくらいこの空に生えたその赤は驚きを隠せなかった。きれいな赤だった。

瑠璃光寺への地図は目と鼻の先にあった。
(港区の霊園「瑠璃光寺」の詳細はこちら)

スカイツリーへ放送設備が移設されてから、東京タワーは予備電波塔としての役割へと変えた。スカイツリーが災害時などに電波が送れなくなっても、東京タワーから送ることができるというわけだ。また移設前から、あの高さを生かして東京都の環境局が風速や温度、また大気汚染の調査をしているそうだ。

東京タワーは現役を引退したわけではない。いまもこの街を見守る大切な役割を果たしている。赤と白に伸びるこのタワーがわたしは好きだ。

 

瑠璃光寺が姿をみせ、庭に育つ木々の隙間から赤と白の塔は顔をのぞかせた。

1957年に建設が始まったこの電波塔は実に22万人もの人の手をかけ1年3ヶ月で建設されたという。うちほとんどが鳶職人たちの手によって建てられたそう。60年近くたってもこんなにも愛され、生き続けているのは、技術を極めた職人たちの仕事の成せた業なんだということがわかる。また今日に至るまでにこの美しさは人の手によってペンキを塗り替えられ、整備され続けている。いつの時代になってもそこに人がいることで保ち続けられた美しさや、尊さがあることを知る。

瑠璃光寺はそんな東京タワーを見上げながら佇んでいた。

 

瑠璃(ガラス)の名前のつく瑠璃光寺は、山口県は五重塔で知られた瑠璃光寺と縁があるようで山口県瑠璃光寺の別院として慶長19年(1614年)に海山した寺である。有形文化財である門をくぐると歴史がありつつも清廉で美しい印象の本堂が迎える。

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増上寺の別院として宝暦の頃に涅槃門のあたりから移ったそうだ。またそばには、増上寺ともゆかりのある心光院がある。

 ここには本堂のほかに「お竹如来の縁起」とされたお堂がある。

お堂にはお竹如来像および流し板がまつられている。

寛永年間、江戸大伝馬町の名主佐久間勘解由の使用人お竹は荘内(山形県)出身にして生まれつきいつくしみの心に溢れ、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤のすみに網をおいて、洗い流しの飯が溜まったものを食料としたという。信仰深く常に念仏を怠らず、大往生をとげたという。この話を聞いた五代将軍綱吉の母桂昌院は、いたく心を動かされ、金襴の布に包まれた立派な箱に、お竹さんが当時使った流し板をおさめて、増上寺別院であった心光院に寄進され、その徳光を顕彰された。このことは江戸名所図絵、三縁山誌等にとりあげられている。

桂昌院御詠歌に

  ありがたや 光とともに行く末は

    花のうてなにお竹大日

一茶の俳句に

  雀子やお竹如来の流し元

    雪の日やお竹如来の縄だすき

また当時の浮世絵師春信、国芳、豊国ら多くの絵師によってお竹さんの姿が描かれた。

 

以上はこの瑠璃光寺心光院のお竹さんの堂が祀られたお堂のそばに書かれてあった。江戸時代の名主である佐久間氏の使用人であるお竹さんがこのように大きく祀られているというのは本当に当時でいったらすごいことであろう。慈しみあるお竹さんの行動は当時であっても、いまでもそうできることではない。だれかのために、だれかの命のために、そう生きることの大きさ尊さをここでもまた気づかされる。

 

瑠璃光寺はそうやってこんな風に生きてきたお竹さんの命や生き方を、お竹さんのいない今でも語り継いで静かにじっくりとあの大きな東京タワーの下で守り継いでいるのだ。

 

お竹さんの生き方、そして等しく、たくさんの故人たちのいのちを守っている。

瑠璃光寺を跡にし、わたしは小さな丘をのぼり東京タワーに向かった。

見上げても見上げても、近くに着いたときほど東京タワーの頭の先は目に入らず全貌は遠くからのほうがよく見えた。それほど、東京タワーは大きすぎる存在だった。

こんなに大きな鉄の塊を人の力で作り上げたことなど想像ができない。

22万人がどんな動きをすればこんなに力強い塔は生まれるのだろう。

 

今日まで東京が、日本がこの人々の仕事で動かされ、守られてきたことをただただ羨望の眼差しで見上げることしかできなかった。

 東京タワー、スゴイ!!

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   心光院とゆかりのあったと言われる増上寺に向かう。植え込みの木々の間から何体もの赤い頭巾をしたお地蔵さんが風車とともに佇む。

暮れなずむ夕方の光に照らされたお地蔵さんと風に回される何本もの風車をみていたら、計り知れないほどの母親、父親たちの子を思う心がそこに込められているのを感じてくるようだった。

 

なにが答えであるかは、それはわたしが一概に言えることではないけれど、そこに生まれてきた命、生まれてくるはずだった命、亡くなった命、生きている命、いずれも等しく、尊い命だとつくづくおもう。

そしてこういった水子地蔵たちを眺めて、こんなふうに誰かが慈しみおもうこと、そのことこそなにか大切な絆が守られているように思えた。

 

たとえだれかが、亡くなった命に対して、悲しみに暮れる日々であったとしても、その大切に思う想いは 生きている人間の心の中に大切にきれいな引き出しにしまってあげられるようになれたらいいとおもう。忘れろ、だとか、泣くな、ということではなくて、そっとその引き出しをあけて思い出してあげる。そして生きているものは日々の生活をその引き出しとともに生きる。それが弔いなのではないかとおもうことがある。

そして、そういう行為そのものがお墓まいりなのかもしれない。

 

梅の木が小さな蕾をつけた。1月末の冷たい空気と陽の静かな温度を感じた蕾が「もうすこしで春ですよ」と告げている。

また、わたしたちのあたらしい春が訪れた。

 

- – - – 参照 – - – - - 

瑠璃光寺

〒106-0044 東京都港区東麻布1丁目1−6  電話 03-3583-8605

 

東京タワー

〒105-0011 東京都港区芝公園4丁目2−8  電話 03-3433-5111

増上寺

〒105-0011 東京都港区芝公園4−7−35  電話 03-3432-1431

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次回は、『「ついでに」いくお墓まいり?』を紹介します。

 

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