お墓とわたし

文:つつみ みき

以前にもこんな話を書いたかもしれないけれど、
わたしはお墓参りがとても愛しい時間だとおもっている。

大切なひとをわすれないためのアルバムを入れた引き出しというのは“わたし”の心の中にしかない。

お墓と私 亡くなってしまう悲しみは、日常ではその引き出しを開けるのが辛くなるけれど、お墓参りの場ではそれが素直に引き出せる。
かたちのないものへの思いというのはどこか不安定でふわふわとしていて行き場がない。けれど石の形をした確固たるその墓石にどこか頼ってしまっているのだろうか。


自分の大切な人をお守りしてくれるお墓は、
叶うなら石がいい


お墓の形は時代を超えて変化をしてきたけれど、石の形をしたお墓は形が変化しただけで変わらずいまでも定着をしている。
ステンレスやセラミックのお墓が一時出てきても、石のお墓が定着してきたのは、日本人が古来から石に対して神秘性を感じ、また永久に寂れたり壊れにくいという印象であったから定着したのだろうといわれている。

古い寺社に行ってむかしからの石が絶えずそこにとどまるのを見れば、それが揺るがない証拠だとおもう。
地震国の日本でありながら、その土地のどういった石が良いか、どのような形が保ちがよいかなども考えられている石材。わたしたちの大切な先祖や故人をお守りしてくれるのは、何がダメということではないけれど 叶うならば石がいいと考えてしまう。


「わたしが死んだあと、誰かの負担になりたくない」


07  一方で核家族化が進んで「家族」という意識が戦前にくらべ、わたしたち日本人の中から薄れていき、「お墓を継ぐひとがいない」という時代にいまは差し掛かっていているのも事実。
そうして、どうやって葬るかということがいまの時代のテーマになりつつあるような気がしている。

そのかたちが、
葬儀を行わないない上に遺骨を火葬場で処理してもらう「0葬(ゼロそう)」なのか、
石代の費用負担を考えて、墓石建立の費用をかけないようにする樹木葬という方法なのか
最近では、納骨堂や、永代供養墓といった方法が、ニーズが高い。
むかしはお寺にお墓があってそこに手を合わせにいくこと自体が当然のことだったのに、選択肢がとても増えた。


こんなことを考えていると、あらためて「家族」という存在の大きさに気付かされることも多い。

09 わたしの祖母の住んでいた田舎では近所の寺が自治会長のように近所の子どもたちにいろんなことを教えていた。
戦争などで親を亡くしている子たちも寺にいっておやつを食べたり、お坊さんの説教を聞いたり、お祭りに参加したりして そんな日常の中に子どもたちは成長をしていった。家族の代わりになっていたわけだ。祖母もそのひとりだ。
最近は一部では、そういう地域性に力を入れているところもあるみたいだけれど「わたしは、わたし」といったひとりで生きて行く生き方が増えていて、かくいうわたしもそうなのだけれど、だんだん頼ることも下手くそになっている気がする。

「わたしが死んだあとのことを誰かの負担になりたくない。」
そういう気持ちが先行して、お墓の良さを知りつつもなかなか手の届かない存在になりつつある。
いまやインターネットでもお参りができる時代だけれど、それがわたしたちの安心になるかといったら、わたしはすこしだけその実態のみえないところに大切な人を持ち寄る覚悟がまだ起こらない。わたしが手を合わせたいのは足をつかって使ってでもきちんと人と人が出会うようなリアリティのあるところなのだ。


お墓の話ができるようになって、
親子関係がまたすこし縮まったような気がする


08 この仕事をしはじめてから、お墓のことを考えるようになり親とお墓のことを話をできるようになった。それまではきっとお互いなんとなくこういう話をボヤカしていた。

「死んだあとのことなんて。いまはまだ。私の骨は海にでも撒いてくれれば」
そういって、はぐらかしていたんだということがわかったのは、いまこの仕事をしはじめてお墓の知識がつき始めてからのことだ。

“本当は、こんなお墓にしたい” “負担もかけたくない”
わたしの親の口から具体的な話をきいて、わたしもはぐらかす気にはならなかった。
祖母が亡くなったときに、きちんと祖母の気持ちを聞いておけばよかったという後悔があったから余計だ。わたしができることはなにか、具体的にそういう話ができるようになって親子関係がまたすこし縮まったような気がする。

どんな関係であっても、親子であっても、「わかってくれるだろう、こうしてくれるだろう」というのは本人だけのわかることだとおもうから負担をかけたくないとだけ思わずに伝えてほしいな、という気持ちがわかった。そう思ったら、わたしもそうして気持ちをきちんと繋いでいかないといけないなとおもったのだ。


最近は永代供養墓、納骨堂といったお墓の形がとても人気がある。四角いお墓も、樹木葬も、どれもお墓の考えであればそれにすぎない。樹木葬の樹木だって伸びたらそれを伐採して住宅建築材になることも場所によってはあるだろう、海に散骨を禁止している自治体も少なくない。
法要の仕方など最終的に教えてくれたり面倒みてくれるのは、霊園であり寺である。
何なら負担がないだろう、そういうものは無いということだ。遺されるわたしたちは、親であれ、大切な人にいつだって話しかけたい。寄り添いたい。
お墓のこと、言いにくい、話しにくい話だけれどそれは、振り返る後ろ向きなことではなくて人が意思を伝えていくためのとても大事な作業だから、どうしたらわたしの親が安心してくれるか、これからもたくさんの希望を聞いてみたいとおもう。
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