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豊臣秀吉  [ とよとみひでよし ]

豊臣秀吉
画像元:Wikipedia
生誕年月日 天文6年2月6日(1537年3月17日)
出生地 尾張国愛知郡中村
没年月日 慶長3年8月18日(1598年9月18日)
没地 現在の京都市伏見区 伏見城
官位 筑前守、従五位下・左近衛少将、従四位下・参議、従三位・権大納言、正二位・内大臣、従一位・関白、太政大臣、贈正一位
特記事項 改名:木下藤吉郎、秀吉、羽柴秀吉
別名:別名:元吉
渾名:猿、木綿藤吉、豊太閤
神号:豊国大明神
戒名:国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
主君:松下之綱→織田信長→秀信
本姓:平氏(冒姓)→藤原氏(猶子)→豊臣氏(賜姓)
名字:木下氏→羽柴氏
経歴 農民から成り上がった天下人。
優れた才能を発揮し、斎藤氏と戦った際は墨俣に一夜にして城を築いたとされ、それ以後、織田信長に重用され、三木城・鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻めなどで異彩ぶりを発揮する。
毛利氏征伐の総大将として出兵中、本能寺の変を知り10日で畿内に戻り、山崎の合戦で明智光秀を討つ。その後、織田信長の後継を決める清洲会議では信長の孫・三法師を擁して柴田勝家らと対立したが、賤ヶ岳で破る。徳川家康を小牧・長久手の戦いで服属させると九州・四国を征伐した。1585年、関白となり姓を豊臣と改める。1589年、北条氏を小田原で滅ぼし、奥州征伐を行って日本全土を制圧、天下統一を達成した。その後、2度の朝鮮出兵を行うが失敗し、その間の1598年、病死した。

秀吉を祀る場所

慶長3年、伏見城で亡くなった秀吉の遺体は遺命により東山三十六峰の一つの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、墓所となりました。翌年、約30万坪の広さの太閤坦(たいこうだいら)を造成し、豊国神社の前身と言える豊国廟・豊国社が造営されました。しかし大阪夏の陣により豊臣家が途絶えると、徳川幕府により神号が廃され、社領は没収、社殿は朽ちるままにされてしまい、神体は新日吉神社に移し祀られました。
その約260年後、明治13年に明治天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉を「天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣である」として方広寺大仏殿跡地に「豊国神社」として再建させ、現在に至っています。秀吉の妻ねねを祭る摂社・貞照(さだてる)神社がありますが一般公開されていないようです。
また、秀吉が大名として統治した大阪府の大阪城公園や滋賀県長浜市、石川県金沢市のほか、出身地の名古屋市中村区にも豊臣秀吉を祀る同名の神社があります。

墓情報

埋葬地名 豊国神社
ウェブサイト  ------------- 
所在地 京都市東山区大和大路通正面茶屋町530
最寄駅 • 京阪本線「七条駅」徒歩約8分
• JR線「京都駅」:市バス206,208乗車⇒「三十三間堂前バス停」下車 徒歩約5分
• JR線「京都駅」:市バス207,特207乗車⇒「東山七条バス停」下車 徒歩3分
最寄I.C. 阪神高速8号京都線「上鳥羽」約14分
拝観時間 境内拝観自由(宝物館:9:00~16:30)
拝観料 境内拝観自由(宝物館:大人300円、豊国廟所:大人50円)
立て札による
案内・解説
あり
同じ墓域に眠る
偉人
北政所(妻のねね)
周辺地域に眠る
偉人
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周辺情報 京都国立博物館、三十三間堂

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