トップ  > 偉人墓地のご案内  > 戦国武将の墓  > 真田昌幸詳細

真田昌幸  [ さなだまさゆき ]

真田昌幸
画像元:Wikipedia
生誕年月日 天文16年(1547年)
出生地  ------------- 
没年月日 慶長16年6月4日(1611年7月13日)
没地 紀伊九度山
官位 従五位下、左衛門佐
特記事項 改名:弁丸(幼名)、真田信繁、好白(法名)
通称:源次郎、幸村(史料的根拠無し)、豊臣信繁、伝心月叟(史料的根拠無し)
主君:上杉景勝→豊臣秀吉→秀頼
名字:武藤氏→真田氏
本姓:滋野氏、豊臣贈姓
経歴 青年期には武田信玄にその才を認められ、「我が両目の如くなり」と言わしめる近習ぶりで、後世には戦国時代きっての知将、謀将としての人物像が付加され講談や小説などでも知られるようになる。
1561年川中島の合戦が初陣。長篠の合戦で信綱、昌輝の両兄が戦死した為、信濃・上田城主となる。後に上野・沼田城も攻略。武田氏滅亡後は上野・箕輪、信濃・諏訪を領有する条件で徳川家康に臣従。しかし、家康が相模・北条氏と講和して、無断で上野・沼田領を割譲すると、家康と絶交。怒った家康の攻略を受けるが、寡兵にて撃退する。以後、羽柴秀吉に出仕し、上野・沼田を譲る代わりに伊那・箕輪を領有。北条氏滅亡後はその旧領も回復した。関ヶ原の合戦では、長男信幸を東軍につける一方で、自身は次男信繁と共に西軍に加担。上田城にて西上中の徳川秀忠軍3万8千を釘付けにする働きをみせたが、西軍敗北により高野山で隠居。

真田一族の眠る

長国寺は真田家霊屋ともよばれ、1547年、真田幸隆(1513~1574武田信玄家臣)が、真田郷(現長野県小県郡真田町)の松尾城内に真田山長谷寺として建立し、1564年に松尾城外に移され、本格的な禅殺としての諸施設を整えましたが、1622年、上田藩主だった真田信之(1566~1658)の松代移封にともなって現在地に移転し、寺号も長国寺と改めて、現在に至ります。
初代藩主・真田信之公御霊屋は国重要文化財、三代藩主・真田幸道公御霊屋(開山堂)と四代藩主・真田信弘公御霊屋は県宝に指定されています。

そのほかにも、真田山長谷寺(長野県上田市)、善名称院(和歌山県九度山町)に墓が存在します。

墓情報

埋葬地名 真田山長国寺
ウェブサイト  ------------- 
所在地 長野県長野市松代町松代1015-1
最寄駅 長電屋代線「松城駅」徒歩約8分
最寄I.C. 上信越自動車道「長野IC」約5分
拝観時間 9:00~15:30
休館日:水曜日(祝日の場合は開館)、年末年始(12月28日~1月3日)
拝観料 大人300円、子供200円、21人以上団体割引あり(100円割引)
立て札による
案内・解説
あり
同じ墓域に眠る
偉人
真田家一族、恩田民親
周辺地域に眠る
偉人
 ------------- 
周辺情報 大英寺、横田家住宅、典厩寺、典厩寺、旧真田邸、松代城跡、松代象山地下壕

周辺地図