明智光秀 [ あけちみつひで ]
画像元:Wikipedia
生誕年月日 | 享禄元年(1528年)? |
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出生地 | 美濃土岐氏? |
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没年月日 | 天正10年6月13日(1582年7月2日) |
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没地 | 明智藪 |
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官位 | 従五位下・日向守 |
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特記事項 | 通称:十兵衛、惟任日向守 号:咲庵 渾名:キンカ頭 幼名:彦太郎 戒名:秀岳院宗光禅定門、前日洲条鉄光秀居士、長存寺殿明窓玄智大禅定門 主君:斎藤道三→朝倉義→足利義昭→織田信長 氏族:源姓土岐氏流明智氏、惟任賜姓 |
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経歴 |
美濃土岐氏の出身とされ織田信長の家来の中でも智将として活躍した武将。 光秀は41歳で織田信長につかえはじめたが、それ以前の経歴はあまり解明されていない。優れた才能によって信長の信頼を受け、信長と将軍足利義昭との結びつきをはかった。 しかし、天正十年六月謀反を起こし、本能寺で信長を、二条城に信忠を攻め滅ぼす。しかしその知らせを聞き急遽中国から引き返した秀吉に山崎の合戦で大敗、居城の近江坂本城へ引き返す途中に小栗栖で土民の槍にかかり落命。現在に至り、未だ信長を討った理由は定かになっておらず、さまざまな推測、憶測がたてられ、論議されている。 |
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一族とともに眠る
西教寺の正式名称は、天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺 (てんだいしんせいしゅうそうほんざんかいこうさんけんほっしょうさいきょうじ)です。聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建されたと云われのある寺で、光秀は檀徒となり、比叡山焼き討ちで被害を受けた西教寺の復興に大きく力を注ぎました。そして光秀の死後は一族の墓とともに祠られています。
6月中ごろには明智光秀公御祥当法要、明智光秀公顕彰会などが催されます。
西教寺のほかに和歌山県伊都郡の高野山奥の院 、岐阜県明智町の龍護寺、同美山町の桔梗塚、京都市東山区の尊勝院・亀岡市の 谷性寺(こくしょうじ) ・宮津市の盛林寺には首塚、京都市山科区には胴塚など、多くの墓が現存しています。
墓情報
埋葬地名 | 西教寺 |
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ウェブサイト | http://www.saikyoji.org/ |
所在地 | 滋賀県大津市坂本5-13-1 |
最寄駅 |
• JR湖西線「比叡山坂本駅」徒歩約30分 • JR湖西線「比叡山坂本駅」:江若バス乗車(約7分)⇒「西教寺バス停」下車 • 京阪電車「坂本駅」徒歩約25分 • 京阪電車「坂本駅」:江若バス乗車(約4分)⇒「西教寺バス停」下車 |
最寄I.C. | 名神高速道路「京都東IC」約21分 |
拝観時間 | 9:00~16:30 |
拝観料 |
• 大人 :400円 • 中学生:300円 • 小学生:200円 |
立て札による 案内・解説 |
あり |
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周辺情報 | 雄琴温泉 、東南寺 |