河野敏鎌
[ こうのとがま ]
生誕年月日 |
天保15年10月20日(1844年11月29日) |
特記事項 |
職歴:侍詔局出仕、広島県大参事、司法大丞兼大検事、元老院議官、元老院副議長、文部卿、農商務卿、内務大臣、司法大臣、農商務大臣、文部大臣 |
経歴 |
江戸に遊学し、安井息軒の門下となる。その後、土佐に帰国して武市瑞山のいる土佐勤王党に入り、坂本龍馬らと交友関係を持つ。
五十人組に参加し、国事に奔走していたが、土佐の反論が佐幕派に転じたため投獄される。獄中生活は6年にもおよび、同志を守るために厳しい拷問に耐え続けたと言い伝えられている。
明治維新が起こると、免じられ出獄。その後は侍詔局出仕、広島県大参事、司法大丞兼大検事、元老院議官、元老院副議長、文部卿、農商務卿を歴任するが、「明治14年の政変」によって、大隈重信らと下野。翌年に大隈らとともに立憲改進党結成。副総理(副党首)になるのだが、自由党の解党の影響を受け、改進党解党を主張するが、反対にあい、大隈と脱党する。そのため立憲改進党は崩壊寸前まで陥った。その後、内務大臣、司法大臣、農商務大臣を、第二次伊藤博文内閣で文部大臣を歴任。
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都心の歴史ある高級霊園
1872年(明治5)に日本最初の公営墓地として開かれた霊園で、都心にあり交通の便が大変に優れているため、いつでもこころおきなくご先祖様にお参りすることが可能です。
各界著名人のお墓があることでも知られている都立霊園で、大久保利通や、忠犬ハチ公の墓などもあります。永久に眠る地として都心を選ぶとき、著名人と同じ霊園ということはステータスをも思わせます。
また墓地の中は何本も道路が通っており、それら道路の両側には桜の巨木が多く植えられ、お花見の時期には桜の名所としても知られるほど。違った一面も楽しむことが魅力の霊園です。
河野敏鎌の墓碑位置
1-イ11-10~11