山内一豊 [ やまうちかつとよ ]
画像元:Wikipedia
生誕年月日 | 天文14年(1545年)もしくは天文15年(1546年) |
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出生地 | 尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田) |
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没年月日 | 慶長10年9月20日(1605年11月1日) |
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没地 | 高知城 |
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官位 | 五位下、対馬守、従四位下、土佐守 |
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特記事項 | 別名:辰之助(幼名)、猪右衛門、伊右衛門(通称) 戒名:大通院殿心峯宗伝大居士、贈従三位 主君:浅井新八郎→前野長康→牧村政倫→山岡景隆→織田信長→豊臣秀吉→秀次→秀頼→徳川家康 藩:土佐藩主 氏族:藤原姓山内氏 |
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経歴 |
戦国武将で土佐藩の初代藩主で、尾張国葉栗郡の黒田城に生まれる。 父の死と主家の滅亡により流浪生活を強いられ、親類知人を頼って転々としたが、その後織田信長に仕官し、羽柴秀吉の麾下に入って各地の戦に参加。秀吉の立身とともに身代を大きくし、近江長浜2万石ついで遠江掛川城主5万石を拝領。また、豊臣秀次に家老のひとりとして付けられていたが、秀次失脚の際は連座を免れる。 秀吉の没後は徳川家康に従って上杉景勝討伐軍に参加。関ヶ原の戦いでは後陣で毛利勢に備えていたため手柄を挙げる機会が無かったが、前哨戦の米野の戦い・岐阜城攻めで活躍。戦後の論功行賞では、その功績が認められて長宗我部盛親の旧領である土佐一国に封ぜられた。長宗我部旧臣の懐柔に失敗し、ついには桂浜で虐殺するという最悪の手段を取らざるを得なかった。 土佐に入国すると、長宗我部氏の居城浦戸城を廃して、大高坂山に築城を開始。跡を継いだ忠義のときに高智(高知)と改められ、また三の丸までの全域が完成した。 妻も有名で、妻が手鏡の中に隠していたへそくりで名馬を買って織田信長に認められたという逸話が有名。 |
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