後藤基次 [ ごとうもとつぐ ]
画像元:Wikipedia
生誕年月日 | 永禄3年4月10日(1560年5月5日) |
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出生地 | ------------- |
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没年月日 | 元和元年5月6日(1615年6月2日) |
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没地 | 大和路方面・国分(大坂夏の陣) |
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官位 | 従六位下・隠岐守 |
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特記事項 | 改名:基次、氏房、政次 別名:又兵衛 戒名:西照院殿夏安道蓮大居士 主君:黒田孝高→黒田長政→豊臣秀頼 氏族:後藤氏 |
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経歴 |
1560年~1615年。播磨三木城主、別所長治の家臣である父の次男として生まれる。 幼少の頃から黒田氏の家臣として仕え、数多くの軍功を挙げ、「黒田二十四騎」や「黒田八虎」の一人に数えられた。しかし伯父の謀反により一時、黒田家中から追放されてしまうがその後再び黒田氏の家臣として仕え、朝鮮の役、関ヶ原合戦で活躍し、小隈城1万6千石を与えられる。 しかし、それもつかの間、長政に謀反の疑いをかけられ、浪人を余儀なくされ乞食にまで身を墜してしまう。豊臣家からの招きに応じ「討ち死にを持って厚志に報いる」と語ったという。その翌年、夏の陣においても多勢に無勢ながらも奮戦したが片倉重長率いる鉄砲隊に腰を撃たれ歩行不能となり、部下に介錯させ、自刃したといわれる。 |
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大阪夏の陣で絶えた猛将
豊臣方として大阪夏の陣に参加し、戦死した後藤基次の墓のある寺院です。
妻やその子孫相継いで9代までの墓が現存します。
摂津・姫路・岡山・鳥取の4箇所に景福寺があり、鳥取景福寺には鳥取藩関連の書画、墓跡等が残されている。
また、奈良県には後藤家屋敷跡があり、そのこ桜はみごとで、「又兵衛桜」と呼ばれている。