大友義鎮 [ おおともよししげ ]
画像元:Wikipedia
生誕年月日 | 享禄3年1月3日(1530年1月31日) |
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出生地 | 豊後府内 |
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没年月日 | 天正15年5月6日(1587年6月11日) |
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没地 | 豊後国津久見 |
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官位 | 正四位下、左衛門督 |
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特記事項 | 改名:塩法師丸(幼名)、義鎮、休庵宗麟 別名:五郎、新太郎(仮名)、宗滴、円斎、府蘭、玄非斎、三玄斎、三非斎(号) 戒名:瑞峯院殿羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士 霊名:ドン・フランシスコ(普蘭師司怙) 主君:豊臣秀吉 氏族:大友氏(藤原氏秀郷流) |
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経歴 |
豊後・大友氏第21代当主。二階崩れの変で父義鑑が家臣に殺され、その跡を継ぐ。 父の死、また若き頃の母の死の経験しキリスト教の洗礼を受け、ドン・サンフランシスコという洗礼名を受ける。海外貿易での収入によって軍事力は大きくなり、国崩しと呼ばれる大砲も実戦で使った。 また、早くから安芸・毛利氏、肥前・龍造寺氏、薩摩・島津氏らと戦い、一時は豊・筑・肥6ヶ国を支配し、九州探題にも任じられたが、1578年島津氏に日向耳川に戦い大敗して衰勢に向かい、天下人羽柴秀吉の援けを受けその配下となった。義鎮はポルトガルや明と積極的に交易し、また、耶蘇教布教を許して教会、孤児院、病院などの施設を建て、1582年には少年使節をローマに派遣している。58歳で没。 |
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キリシタン大名が眠る
昭和52年に、上田保氏を発起人として「大友宗麟公顕彰会」が結成され、建築家磯崎新氏の設計のもと、右の写真のようなキリスト教式の墓が建てられました。春には墓地公園にも左のような桜が咲き、秋には紅葉で公園内が綺麗に彩られます。
そのほかにも京都府の瑞峯院にも墓が存在しており、津久見市上宮本町の響流山長泉寺には位牌があります。
墓情報
埋葬地名 | 大友宗麟墓地公園 |
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ウェブサイト | http://www.city.tsukumi.oita.jp/kankou/637/000698.html |
所在地 | 大分県津久見市津久見尾畑 |
最寄駅 | JR日豊線「津久見駅」:バス乗車(約10分) |
最寄I.C. | 東九州自動車道「津久見IC」約14分 |
拝観時間 | ------------- |
拝観料 | ------------- |
立て札による 案内・解説 |
あり |
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周辺情報 | 狩生鐘乳洞、彦岳展望所、彦岳自然休養林、尾崎小みかん先祖木 |