今川義元 [ いまがわよしもと ]
画像元:Wikipedia
生誕年月日 | 永正16年(1519年) |
---|
出生地 | ------------- |
---|
没年月日 | 永禄3年5月19日(1560年6月12日) |
---|
没地 | 尾張国桶狭間(桶狭間の戦い) |
---|
官位 | 従四位下・治部大輔、上総介、三河守 |
---|
特記事項 | 改名:芳菊丸(幼名)、栴岳承芳(号)、義元 戒名:天沢寺殿四品前札部侍郎秀峰哲公大居士、天澤寺秀峯哲公 氏族:今川氏(吉良氏庶流 |
---|
経歴 |
駿河を本拠とし、「海道一の弓取り」と恐れられていた戦国大名。 長兄氏輝の死後、花倉の乱で次兄の玄光恵探を討ち破ったことから家督を継ぐ。それまでの北条との友情関係を絶ち武田と結んだ義元は北条と戦い、次いで織田信秀を小豆坂で破った。 その後安祥城を攻略し、織田信広と松平竹千代の人質交換に成功。三河における政権と三河衆の家臣化に成功する。1554年には太原雪斎の奔走により武田・北条・今川の三国間で婚姻同盟が成立。 いち早く検地を行い、商工業振興や富国強兵に努め、分国法「今川仮名目録追加」を制定、善徳寺(ぜんとくじ)の会盟で、甲斐の武田信玄・相模の北条氏康と三国同盟を締結する。 桶狭間の戦いで尾張の織田信長に討たれ敗死した。 |
---|
最後の戦の地で眠る
1560(永禄3)年、織田信長軍と今川義元軍が交戦した戦いの舞台に今川義元は眠っています。この地は歴史上重要な地として国の史跡に指定されています。
6月の第一週目の週末には桶狭間古戦場伝説地一帯や高徳院にて、桶狭間古戦場まつりが催され、両軍入り乱れた当時の戦いの様子が伝えられる合戦再現劇を見ることができます。
桶狭間古戦場伝説地のほかにも、愛知県豊川市牛久保町には胴塚、愛知県西尾市東向寺には首塚があり、高徳院(愛知県豊明市)、臨済寺(静岡県静岡市)、観泉寺(東京都杉並区)にも墓が建てられています。