正岡子規  [ まさおかしき ]

正岡子規
画像元:Wikipedia
生誕年月日 慶応3年9月17日(1867年10月14日)
出生地 伊予国温泉郡藤原新町
没年月日 明治35年(1902年)9月19日
没地 東京市下谷区上根岸
活動 俳人、歌人、新聞記者
特記事項 ジャンル:俳句、短歌、評論、随筆など
文学活動:根岸短歌会
影響を与えたもの:アララギ派、ホトトギス 
主な著作:『俳人蕪村』、『俳諧大要』、句集『春夏秋冬』、随筆日記集『病牀六尺』、歌集『子規遺稿竹の里歌』等
経歴 伊予松山藩士正岡隼太の長男として生まれる。
母より文学、芸術の影響を受けて育ち、異色のある児童として認められていた。勝山学校時代には秋山真之と出会う。
中学生時に、自由民権運動の影響を受けて政治家を志し、上京。東京大学予備門に入学して生涯の友・夏目漱石と知り合う。子規は、1889年(明治22年)5月に喀血をしてから、「子規」(ホトトギスの異名)と号する。太政大臣になることをめざし上京した子規ではあったが、療養もあり落第をくりかえし、在学していた帝国大学文科大学哲学科を退学。俳句の道に活路を見出し「俳句革新」を志すようになる。
日清戦争では従軍記者となるが、帰りの船中で喀血し、肺結核で病の床につく。長く病床で暮らすことになるが、創作活動は精力的に行い、1898年(明治31年)には、『歌よみに与ふる書』を書き短歌の革新にも情熱を注いだ。
病床六尺に在りながらも、美の行者としてありつづけた彼だが、1902年(明治35年)9月19日に力尽きた。36歳の誕生日の翌々日であった。

静かな寺院で眠る

日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である正岡子規は、東京都は北区にある大龍寺で眠っています。
静かな寺に葬って欲しい、という子規の願いを、日頃聞いていた弟子たちがこの寺を選び、木々に囲まれて静寂のあるこの寺が選ばれたと言われています。

大龍寺よりすぐ近くには子規庵という、子規が生前に病室兼書斎、句会歌会の場として利用していた建物があります。JR線鶯谷駅の北口より徒歩5分とアクセスも良いので、お墓とあわせてのご訪問をお薦めします。

墓情報

埋葬地名 大龍寺
ウェブサイト  ------------- 
所在地 東京都北区田端4-18-4
最寄駅 JR山手線「駒込駅」徒歩約10分
JR山手線「田端駅」徒歩約8分
最寄I.C. 首都高速中央環状線「王子北」約10分
拝観時間  ------------- 
拝観料  ------------- 
立て札による
案内・解説
なし
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