近藤勇 [ こんどう いさみ ]
画像元:Wikipedia
生誕年月日 | 天保5年10月9日(1834年11月9日) |
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出生地 | 武蔵国多摩郡 |
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没年月日 | 慶応4年4月25日(1868年5月17日) |
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没地 | 武蔵国豊島郡平尾一里塚 |
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藩 | 江戸幕府会津藩 |
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活動 | 壬生浪士組、新選組、甲陽鎮撫隊、会津藩 |
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所属 | 壬生浪士組、新選組、甲陽鎮撫隊 |
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経歴 |
農民宮川久次郎の三男として生まれる。 嘉永元年(1849年)11月11日、勝五郎は天然理心流剣術道場・試衛館に入門。 文久三年(1863年)、14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」へ、試衛館の8人とともに参加を決め、2月8日、浪士組一向と共に京都へ。京都守護職会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始。 元治元年(1864年)6月、中川宮邸放火計画を知った新選組は、池田屋に突入して宮部一派を壊滅させる。 慶応四年、鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れ、大久保剛と改名した近藤は甲陽鎮撫隊として隊を再編し甲府へ出陣した。しかし、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れ、大久保大和と再度名を改め、4月には下総国流山に屯集するが、新政府軍に包囲され、越谷の政府軍本営に出頭する。 4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首された。享年35(満33歳没)。首は板橋と大坂の千日前、京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明である。 |
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新撰組隊士と共に眠る
近藤勇の遺体は東本願寺法主が受け取り埋葬したとされていますが、一説に同志により奪還され、愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られたともいわれ、同寺に近藤の首塚があります。福島県会津若松市の天寧寺にも土方歳三が遺体の一部を葬ったとされる墓があります。
東京都三鷹市の龍源寺と、ここJR板橋駅前にも旧同士だった永倉新八により建立された墓所があり、胴体が埋葬されていると言われています。
近藤勇の命日である4月25日には毎年慰霊祭が行われ、墓所は板橋の商店街で保存会を結成し、掃除やお花をお供えしています。
また墓所を訪れた人達が新選組への思いをつづるノートが置いてあり、各々の思いを書きとめて行くようです。
墓情報
埋葬地名 | 板橋 |
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ウェブサイト | http://www.city.itabashi.tokyo.jp/ |
所在地 | 東京都北区滝野川7-8-10 |
最寄駅 | JR「板橋駅」徒歩約1分 |
最寄I.C. | 首都高速中央環状線 新板橋 約6分 |
拝観時間 | ------------- |
拝観料 | なし |
立て札による 案内・解説 |
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