山川浩  [ やまかわひろし ]

山川浩
画像元:Wikipedia
生誕年月日 弘化2年11月6日(1845年12月4日)
出生地 会津藩
没年月日 明治31年(1898年)2月4日
没地  ------------- 
特記事項 職業:藩士、陸軍軍人
渾名:貴族院三将軍
所属組織:会津藩、斗南藩、明治政府
最終階級:家老(会津藩)、大参事(斗南藩)、陸軍少将(明治政府)
戦闘:会津戦争、佐賀の乱、西南戦争
賞罰:男爵
除隊後:東京高等師範学校校長(陸軍在籍)、女子高等師範学校校長(陸軍在籍)、貴族院議員
初名:大蔵、与七郎、常盤
諱:重栄
字:士亮
親族:山川重固(父)、山川健次郎(弟)、操(妹)、双葉(妹)、大山捨松(妹)、トセ(妻)
経歴 慶応2年(1866年)に、日露国境画定交渉使小出秀実に随行してヨーロッパ経由露国に行く。帰国後会津藩物頭となり、のち若年寄に就く。戊辰戦争に従軍し、最後まで戦うが、会津若松城が落城し、後禁固謹慎の身となる。
明治維新後は戊辰戦争での活躍から陸軍に出仕。佐賀の乱、西南戦争を経験し、大佐に昇格。しかしこのときの怪我で、左手が不自由に鳴ってしまう。
その後少将まで昇進。明治23年(1890年)には貴族院議員となったが、厳格な浩はともに会派・懇話会を旗揚げした谷干城、曽我祐準と共に「貴族院三将軍」と言われて恐れられていた。
また、陸軍に在籍中に東京高等師範学校、女子高等師範学校の校長に任命されている。
死ぬまで会津藩に厚い忠誠心を持っていた浩であるが、一方で会津藩の藩学であった朱子学を避け陽明学を学んでいたといわれており、反骨心のある人格であったことが垣間見える。

都心の歴史ある高級霊園

1872年(明治5)に日本最初の公営墓地として開かれた霊園で、都心にあり交通の便が大変に優れているため、いつでもこころおきなくご先祖様にお参りすることが可能です。
各界著名人のお墓があることでも知られている都立霊園で、大久保利通や、忠犬ハチ公の墓などもあります。永久に眠る地として都心を選ぶとき、著名人と同じ霊園ということはステータスをも思わせます。
また墓地の中は何本も道路が通っており、それら道路の両側には桜の巨木が多く植えられ、お花見の時期には桜の名所としても知られるほど。違った一面も楽しむことが魅力の霊園です。


山川浩の墓碑位置

1-ロ18-5

墓情報

埋葬地名 都営青山霊園
ウェブサイト http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index072.html
所在地 東京都港区南青山2-32-2
最寄駅 • 東京メトロ銀座線「外苑前駅」徒歩約8分
• 東京メトロ千代田線「乃木坂駅」徒歩約12分
最寄I.C. 首都高速3号渋谷線「高樹町」約8分
拝観時間 午前8時30分~午後5時15分
拝観料 無料
周辺情報 旧乃木邸、乃木神社、都立青山公園、国立新美術館

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