片山潜 [ かたやません ]
画像元:Wikipedia
生誕年月日 | 安政6年12月3日(1859年12月26日) |
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出生地 | 美作国久米南条郡羽出木村(現・岡山県久米郡久米南町羽出木) |
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没年月日 | 昭和8年(1933年)11月5日 |
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没地 | ソビエト連邦、モスクワ市 |
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特記事項 | 職業:労働運動家 号:深甫 幼名:菅太郎 親族:片山幾太郎(養父) 出身校:岡山師範学校(中退) 著作:「片山潜著作集」「わが回想」 |
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経歴 | 明治から昭和期の労働運動家。 岡山師範退学後上京して苦学ののち、サンフランシスコに渡り15年在米、苦学してグリンネル大学、エール大学を卒業。留学中にキリスト教に入信。帰国後、日本人最初の隣保館である「キングスレー館」を設立した。そしてキングスレー館の運営の傍らで片山は労働運動に力を尽くし、明治30年12月『労働世界』を創刊し主筆を務め、日本で最初の労働組合である労働組合期成会の設立に大きな役割を果たした。明治34年(1901年)、日本で最初の社会主義政党である社会民主党の結成に幸徳秋水らとともに加わり、黎明期の労働・社会主義運動を担った。 第2インターナショナル6回大会 でのプレハーノフとの握手は有名で、共に労働者の反戦を訴えた。幸徳と並ぶ明治期社会主義のリーダーであったが、幸徳の直接行動論に対して議会政策論を堅持して対立した。大正3(1914)年に渡米し、以後終生国外にあった。1921年ソ連入りし、1922年コミンテルン幹部会員となり、以後日本国内の運動の実態とは離れたままで、コミンテルンの日本共産党指導に関与し続けた。死後クレムリンの壁に葬られた。 |
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都心の歴史ある高級霊園
1872年(明治5)に日本最初の公営墓地として開かれた霊園で、都心にあり交通の便が大変に優れているため、いつでもこころおきなくご先祖様にお参りすることが可能です。
各界著名人のお墓があることでも知られている都立霊園で、大久保利通や、忠犬ハチ公の墓などもあります。永久に眠る地として都心を選ぶとき、著名人と同じ霊園ということはステータスをも思わせます。
また墓地の中は何本も道路が通っており、それら道路の両側には桜の巨木が多く植えられ、お花見の時期には桜の名所としても知られるほど。違った一面も楽しむことが魅力の霊園です。
片山潜の墓碑位置
1-ロ14-13
墓情報
埋葬地名 | 都営青山霊園 |
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ウェブサイト | http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index072.html |
所在地 | 東京都港区南青山2-32-2 |
最寄駅 |
• 東京メトロ銀座線「外苑前駅」徒歩約8分 • 東京メトロ千代田線「乃木坂駅」徒歩約12分 |
最寄I.C. | 首都高速3号渋谷線「高樹町」約8分 |
拝観時間 | 午前8時30分~午後5時15分 |
拝観料 | 無料 |
周辺情報 | 旧乃木邸、乃木神社、都立青山公園、国立新美術館 |