奥保鞏 [ おくやすかた ]
画像元:Wikipedia
生誕年月日 | 弘化3年11月19日(1847年1月5日) |
---|
出生地 | 豊前国小倉 |
---|
没年月日 | 昭和5年(1930年)7月19日 |
---|
没地 | ------------- |
---|
特記事項 | 幼名:為次郎 所属政体:大日本帝国 所属組織:大日本帝国陸軍 最終階級:元帥陸軍大将 爵位:伯爵 指揮:陸軍参謀総長、第2軍司令官、東京防御総督、近衛師団長、第1師団長、第5師団長 戦闘/作戦:長州征伐、佐賀の乱、台湾出兵、神風連の乱、西南戦争、日清戦争、日露戦争 |
---|
経歴 | 明治から大正時代に活躍した大日本帝国陸軍の軍人。 豊前小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男で、幕末期には幕府側に立つ主家に従い、長州征伐に参加。維新後は、佐賀の乱に熊本鎮台の中隊長として参加し、西南戦争時は大隊長となり活躍。日清戦争では第五師団長を務める。 その後、陸軍大将になり、日露戦争では第二軍司令官として作戦を指揮する。戦後、児玉源太郎の急逝を受け参謀総長に就任。その後、伯爵叙せられ、元帥府に列せらる。 奥は生涯で自分の功績をひけらかす様な事はせず、日露戦争終戦後凱旋した時などは、日の丸を揚げて喜ぶ人々の姿を見て、「済まぬ、許してくれ」(大勢の戦死を出したことの自責の念とも伺える)と呟いたという逸話が残っており、また天性の軍人らしく、政治向きのことには一切興味を示さずに静かな晩年を過ごした。 昭和5年7月19日に死去。85歳。 |
---|
都心の歴史ある高級霊園
1872年(明治5)に日本最初の公営墓地として開かれた霊園で、都心にあり交通の便が大変に優れているため、いつでもこころおきなくご先祖様にお参りすることが可能です。
各界著名人のお墓があることでも知られている都立霊園で、大久保利通や、忠犬ハチ公の墓などもあります。永久に眠る地として都心を選ぶとき、著名人と同じ霊園ということはステータスをも思わせます。
また墓地の中は何本も道路が通っており、それら道路の両側には桜の巨木が多く植えられ、お花見の時期には桜の名所としても知られるほど。違った一面も楽しむことが魅力の霊園です。
奥保鞏の墓碑位置
1-イ9-9
墓情報
埋葬地名 | 都営青山霊園 |
---|---|
ウェブサイト | http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index072.html |
所在地 | 東京都港区南青山2-32-2 |
最寄駅 |
• 東京メトロ銀座線「外苑前駅」徒歩約8分 • 東京メトロ千代田線「乃木坂駅」徒歩約12分 |
最寄I.C. | 首都高速3号渋谷線「高樹町」約8分 |
拝観時間 | 午前8時30分~午後5時15分 |
拝観料 | 無料 |
周辺情報 | 旧乃木邸、乃木神社、都立青山公園、国立新美術館 |